中国現場カイゼン研究会のコラム

中国における製造業の生産性向上をデジタルとTPSでサポート。中国に製造にまつわるアレコレを書いてます。

中国企業BYDの成り立ちとは?

こんにちは。カイゼン研究会 宇賀です。

 

電気自動車販売台数で

テスラと1,2位を争う中国を代表する企業のBYD。

プラグインハイブリッド、ガソリンまで含めると

2023年度、中国で最も売れたブランドとなりました。

年間302万台(前年比約62%増)という勢いです。

 

2022年には日本市場への参入も開始し

最近では長澤まさみを起用したCMが大々的に流れ

日本での認知度も増しつつあります。

 

こんなに有名企業ですが

意外と日本語での企業研究や書籍が少なく

全貌が見えにくい企業なのです。。

 

今回は

そんなBYDの成り立ちや創設者の紹介をしていきます。

 

(1)創始者 王伝福と設立の流れ

(2)電池事業について

(3)自動車事業について

の順に話していきます。

 

 

(1) 創始者 王伝福と設立の流れ

 

BYDの設立は1995年ですが

創始者の王伝福さんはさかのぼること30年

1966年安徽省の農村生まれです。

 

5人の姉、一人の兄、妹を含む8人兄弟で

決して豊かな生活ではありませんでした。

 

稼ぎ頭である大工の父が13歳の時に他界し

母もその二年後に他界するという困難な状況でした。

兄が学業を諦め働くことで生計をたてるという苦しい生活でしたが

弟の王伝福だけには学業に専念させていたそうです。

 

そんな苦しい環境で育ちましたが

学業は抜きんでており、化学分野で学位を取り

1987年から北京の金属研究所で働き始めます。

そこで電池の研究に没頭します。

 

成果が認められ、当時異例の26歳の若さで

1993年に研究所の運営する深圳電池会社の総経理に抜擢されることとなります。

ここまでの経歴で技術一筋のエンジニアだったことが分かります。

 

企業運営と電池製造を経験していく中で

電池分野の将来性が大きいことを肌で実感してきます。

 

当時、とても高価な携帯電話が中国にも登場して来ていました。

高い値段にもかかわらず売れている様子を見て、

携帯電話市場とそれにともなう充電電池市場はこの先大きく発展するという予感を持つようになったのです。

 

世界一の電池企業を作りたいという夢をかなえるために

起業することを決断しますが、お金がありません。

なので、そのころ深圳で建設業の社長をしていた兄に相談に行きます。

 

国営企業総経理という安定したポジションを持ちながら

起業すると言いただす弟を兄は必死に止めますが

最後には根負けし、お金を貸すことになりました。

 

それが1995年のBYD設立につながります。

 

 

(2)電池事業について

 

当時日本企業がシェアの90%を取っていたのが電池市場です。

三洋、パナソニックソニーという大きなプレイヤーがいる中にBYDは参入していきます。

始めはOEMからスタートしましたが、その後BYDブランドでの生産を始めます。

 

アジア金融危機の影響もあり、周りの日本、韓国のプレイヤーが苦しむ中、日本産よりも40%も低い価格を武器に、ノキアモトローラの携帯向けの大型受注を獲得し、どんどんシェアを伸ばしていきます。

 

その成功をもとにニッケル電池だけでなくリチウム電池の製造にも乗り出そうとします。

 

日本企業に設備を買いに出向くのですが、

高すぎると判断し、設備研究にまた没頭します。

 

他の企業が高い自動化設備を海外企業から購入する中、

設備にも技術にも詳しい王伝福は

設備でしかできない部分と人でも可能な工程を分解し、人海戦術でラインを完成させることに成功します。

本当に自動化は必要かを疑い、安い人件費を活かしたライン設計により他社を圧倒する安さで生産可能になったのです。

2002年には中国1位はもちろんのこと、三洋に次ぐ世界2位にまで躍進します。

 

その頃の中国では

OEMが主体で低利益から抜け出せないのが製造業の課題でした。

 

OEMから始まり→低利益

・海外設備の導入で生産性と付加価値を高める投資

・人の能力や環境要因で設備が活かしきれず負債を抱える。

OEMを継続するしかない。

 

この悪循環が起こっていたのですが

自分の技術でこのサイクルを突破したBYDは

中国でも脚光を浴びました。

 

2002年には香港で上場し、

誰が見ても成功しきったと思えるところまで

わずか7年で辿り着きます。

 

 

(3)自動車事業について

 

これだけの成功を収めているにもかかわらず

電池市場の天井を悟った王伝福は別の道を検討し始めます。

 

まずは携帯電話のOEMを始めますが

それだけでは不足と考え

自動車か半導体への参入を考えます。

 

この2つに関しては

まったくの門外漢ではありますが

自ら本を読み漁り、研究した結果

自動車の技術ならすぐにキャッチアップできると考え

自動車製造への参入を決めます。

 

立ち上げ当初からいた幹部の中には、こんなに成功しているのに自動車への参入は無謀だと考え、会社を去ったものもいるようです。

 

その当時の国有企業であった

西安の秦川汽車を買収し、BYDの自動車会社を設立します。

 

秦川汽車はもともと軍用車の製造をしていたのですが

平和な時代が続く中では商売が成り立たないため

車に参入したという経緯があります。

 

日本の車メーカーから人を招いたり

参考にしながら開発したのが

スズキのアルトをベースにしたフレアーという車です。

 

一時は売れていたのですが

長安汽車吉利汽車との競争の中

価格競争に巻き込まれ、負けてしまっていたのが

当時の秦川汽車の状況でした。

 

そんな秦川汽車をBYDは買収したのですが

その当時は電池の技術を使って

電気自動車を開発してやろうということではなく

純粋に自動車市場への参入が目的です。

 

2003年の設立からは研究開発に専念し

2005年に初めて自動車の製造、販売を始めます。

 

大ヒットするF3という車も

最初は三菱のエンジンを使用していましたが

2007年からは自社開発のエンジンに変わっていきます。

このF3は2009年に中国現地メーカーで最も売れた車になります。

 

2008年には世界初のプラグインハイブリッド車の量産に成功し、

電池の技術と自動車が融合してきます。

 

そんな時に転機が訪れます。

それは著名投資家

ウォーレン・バフェットからの投資が決まるのです。

 

リーマンショックの後で世界的不況だった時に

バフェットからの投資は将来有望企業のお墨付きをもらったことになります。

 

バフェットはもともと最低出資額5億ドルで

どんな企業にも打診にするのですが

王伝福は、株を20%も握られることを嫌がり

結局は2.3億ドルの出資となります。

 

出資を始めて断られたバフェットは

メディアでも王伝福のすごさを語り

デトロイトモーターショーでBYDのロゴが入った服を着て訪れたり、BYDの車でバークシャーハサウェイの株主総会に現れたり世界に向けてPRをしてくれたようです。

 

そんな転機もあり

BYDは2010年には中国国内メーカーで売上1位の座に輝きます。

その後、日本の老舗金型メーカーのオギハラの工場を買収し

自動車用の金型技術を手に入れることで模倣でなく独自のデザインの車を作っていくことになります。

 

参入当初は

自動車で失敗しても

リチウム電池があるという考えでしたが

 

電気自動車の需要増に伴い

車載用電池の需要と重要度も増すということが

ここ10年は起こってきているため

この2つの事業が融合して来ています。

 

こうやって見てくると

とんとん拍子に成功しているように見えますが

 

車載用電池では

2011年に設立された

後発の中国企業CATLが圧倒的No.1を独走しています。

 

自動車にしても

中国企業の参入が相次いで

ライバルもどんどん増えているような状況です。

 

紹介が長くなってしまいましたが

 

当時の中国企業がなかなか取り組めなかった

技術と自社開発にこだわり、電池と自動車の市場を開拓してきたBYDの成り立ちを話してきました。

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。